講師 中村 京子氏(S32理物)
日時 2023年6月22日(木) 13:30~15:00
於 ウイズあかし 学習室703
出席者 21名
太平洋戦争が始まった年(1941年)の小学校1年生の時から終戦、そして日本へ引揚げるまで、旧満州のロシア国境近くの町で過ごした記録を本にまとめられました。記録はすでに40年ほど前に『かたじけのうござる』として冊子に仕上げておられましたが、その後2019年に昔住んでいた町を訪れて、その時の写真を加え、2020年に『旧満州の小さな足跡』と題して、アマゾン電子書籍として上梓されました。
中国東北部のロシアの国境に近い町、虎林(こりん)、寒葱河(かんそうが)、綏芬河(すいふんが)、牡丹江(ぼたんこう)、清原(せいげん)、撫順(ぶじゅん)などの町の様子や小学校の建物などの写真をパワーポイントで示しながら、当時の生活の様子や現地の人たちとの交流、ロシア兵のことなどを話してくださいました。子どもの目で見たり感じたりしたことをリアルな表現で語られ、何10年か前の世界に引き込まれていきました。
語っていただいたいくつかのエピソードをご紹介します。
・虎林在満国民学校に入学し、1年生を過ごした。父は校長先生だった。父が刀剣の話をしたことから、警察に呼ばれた。ここはロシア国境に間近い所でもあり、その後、南の方に転勤が決まった。
・虎林を去る雪の日、藤さんがそりで迎えに来てくれた。そりには火鉢があり、赤い座布団があった、一家はそりに乗せてもらい、校庭を一周してから隣町の綏芬河に向かった。
・父がキジ狩りに行き、4羽を捕らえてきた。その夜は村の人が大勢集まった。現地の人たちとも密接に交流していた。キツネ、タヌキ、ナマズ、キノコなどをとってきたこともあった。
・小学校の小使いさんから、「お礼を言う時の日本語を教えて」と言われた時に私は「かたじけのうござる」と答えた。彼が他の先生に使ったことから父の耳に入り、ひどく叱られたことがあった。
・清原で4~5年生を過ごした。再訪した時、清原在満国民学校が正門や大きな木とともに残っていた。今は人工芝を敷いた美しい小学校だった。
・5年生の8月に終戦を迎えた。天皇の話をラジオで聴いた。子どもには意味が分からず、あとで父が説明してくれたが、無条件降伏は死を意味する言葉だと思い、死ぬのはいやだと思った。夕陽に真っ赤なかぼちゃが光っているのが目に入り、かぼちゃはいいなとうらやましく思った。
・8月15日夜、駅のあたりが騒がしくなった。近所の満州人の奥さん(纏足をしていた)が来て、私達家族(女性)を農機具小屋に隠してくれた。逃げる方法、生きる道があることを教えられた。
・終戦翌日、10人位のロシア兵が家に侵入してきて鉄砲を向けた。私と妹は屋根裏部屋にいたが、そこにも剣が向けられた。上から見た時、兵士の目には恐怖が一杯で、殺す側も恐怖と戦っていることを知った。
・清原から逃げることになり、1945年8月28日午後2時に機関車が来るということで駅に向かった。多くの日本人が乗った客車を繋いで発車した時は涙が出るほどうれしかった。
・撫順に着いて、父の知人の先生の家の一部屋を借りて住んだ。坊主頭にし、私と妹はたばこ売り、豆腐売りなどをして手伝った。当時の永安小学校は。再訪時、専門学校として使われていた。
・母と妹、私で市場で買い物中、ロシア兵が来て母を捕まえた。もうだめかと思った時、長い服を着た中国人が現れ、日本人ではないから放せと助けてくれた。
・ロシア兵にも2タイプある。女を出せと迫る野蛮な兵士が多いが、日本語や計算方法などに興味を持つ知的な兵士もいた。
・順番がまわってきて、私達一家は無事に引き揚げることができた。お世話になった満州の人たちには心から感謝している。
・中国・台湾・満州からの引き揚げ事業はアメリカ主導で行われた。中国は早く進んだが、満州はロシア兵の南下により遅れたようである。
・私は記録は大切だと思っている。阪神淡路大震災の経験も『79人の20秒』(ほとんどが佐保会会員の記録)と『忘れないで』の2冊に仕上げて出版している。
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