講師 埴岡真弓氏 (S53文史・S55博前史) 播磨学研究所研究員
2023年10月26日(木)10:00~14:30 (JR六甲道駅集合、阪神新在家駅で解散)
《見学コース》
1徳井神社(箒の宮)→ 2旧石屋川隧道記念碑→ 3綱敷天満宮…石屋川公園…4御影公会堂(昼食)…西国街道…5東明八幡神社→ 6処女(おとめ)塚古墳→ 7こうべ甲南武庫の郷 (解散)
秋晴れのもと、万葉集や大和物語に登場する悲恋伝説の主人公ウナイ乙女の墓とされる処女塚古墳を目指し、周辺の地を埴岡真弓さんの案内で訪ねました。
参加者は13名でした。
1徳井神社 (箒の宮)
「徳井神社の名称は昭和36年からで、それ以前は「應神天皇神社」と称していた。古くから徳井(現・灘区)の地に祀られていた、上宮・中宮・下宮と称される八幡神社三座の一つで、上宮に当たる。
境内社である八幡社の祭神は神功皇后で安産に霊験あらたかな「箒の宮」として知られる。陣痛が始まると同社から借り受けた荒神箒で腹を撫で、安産の後に水引を掛けて奉納する風習があった。現在も安産祈願に小箒を授けている。

2旧石屋川隧道記念碑
石屋川隧道は日本で最初の鉄道トンネルとして開削された。その当時から石屋川が天井川を形成していたため困難な川底トンネルを掘らねばならなかったが、明治3年(1870年)英国人技術者の設計監督で着工し、翌年に完成した。(大正8年に解体)
石屋川の下を横断し延長は61メートル。
他に芦屋川・住吉川も天井川で、東海道線工事の時に川底トンネルが掘られた。
(当時の写真は説明版から)

3綱敷天満神社 (御影の天神さん)
延喜元年(901年)菅原道真が太宰府に左遷される途中、石屋村の祖・山背王(やましろのきみ)に別れを告げるため当地に立ち寄った。山背王は石の上に円座のように綱を敷きお迎えしたとされる。道真9世の孫、菅原善輝が太宰府に赴任する途中この地を訪れ、道真ゆかりの地として雷神社に道真を合祀し「綱敷天満宮」と社名を定めたという。
《 綱打神事 》
1月8日に氏子の代表者が、小綱36本を12本ずつ3束にして練り合わせ太い大綱を作り注連柱に3巻半に張り渡し、8本の白矢を突き刺し、多くの榊葉を束ねて下に吊るし御幣と麻緒を付ける。
ここを潜り抜けることによって一年間無病息災で暮らせると言い伝えられている。

・石屋川公園
東灘区と灘区の区境を流れる石屋川沿いにある公園で約1.5㎞続く。御影公会堂附近は、野坂昭如の「火垂るの墓」の舞台として知られモニュメントもある。桜の名所。
4御影公会堂
国の登録有形文化財。旧御影町が白鶴酒造7代目加納治兵衛の寄付を受け、昭和7年に着工し翌年に完成した。戦災で内部は焼失したが外壁は残り改修した。平成29年に耐震改修工事完了。
レトロな内装の食堂で昼食をとり、参加者は親交を深めた。
(玄関ホール)

・西国街道と徳川道
兵庫開港に伴い、慶応3年(1867年)外国人と大名のトラブルを避けるため、迂回路である徳川道が造られた。石屋川東岸から分岐し、摩耶山裏から現在の森林植物園・鈴蘭台・白川・高塚山を経て明石大蔵谷で再び西国街道に合流。
5東明(とうみょう)八幡神社
社伝によれば、神功皇后が朝鮮半島に向かう時、武内宿禰が戦勝を祈って当地に若松を植えた。松は大木に育ち、後にこの地を訪れた武内宿禰はこれを瑞兆とし、應神天皇の遺徳を偲び松の傍らに祠を建て「正八幡宮」とし、遠目(東明)の郷の氏神とした。
6処女塚(おとめづか)古墳
国指定史跡。古墳時代前期に作られた前方後方墳。石屋川によって形成された扇状地上に造られた。処女塚古墳と、東灘区住吉宮町1丁目の東求塚古墳、灘区都通り3丁目の西求塚古墳は、万葉集に歌われた悲恋物語の登場人物達の墓と信じられてきた。
しかし、古墳造成の年代から、ヤマト王権と関係を持つこの地方の豪族を葬ったと考えられている。
*ウナイ処女伝説
摂津の国に住む娘に同国の男と和泉の国の男が妻に求めたいと争うようになった。娘は心を痛め生田川に身を投げてしまった。男二人も同じ所に身を投げ、一人は女の足を、もう一人は手をとらえて死んでしまった。そこで、女の墓の傍らに男達も二つの塚を造って葬られた。
後年、大和物語や謡曲の題材になっている。
埴岡さんの詳しい説明に参加者はメモを取りながら熱心に聴き入っていました。古代ロマンに思いをはせ、東求塚古墳や西求塚古墳も訪れたいと思いました。