2019年4月25日(木) 9:00~17:15
あやぶまれた天気も、集合時は曇りに、午後からは晴れでした。
9:00 三宮東急レイホテル前を出発し、バス(山陽バス中型)は中国縦貫道、福崎から播但連絡道路を走って
10:45 生野銀山に到着しました。生野銀山職員に鉱山資料館を説明いただき、その後40分かけて坑内を歩き、吹屋資料館も見学しました。
12:30-13:20 古民家を利用したカフェーショップ(芒種)で、昼食・歓談しました。
13:30 ガイドさんの案内で、二班に分かれ、口銀谷(くちがなや)町を散策しました。生野義挙碑、寺町、旧生野鉱山職員宿舎(志村喬記念館としてオープン)、トロッコ道、井筒屋など。
15:30 生野を出発。 17:15 三宮到着。
生野銀山は大同2年(807)に発見されたと伝えられ、室町天文11年(1542)には山名祐豊時代に銀鉱脈の本格的な採掘がはじまりました。織田・豊臣の各時代を経て、江戸時代に幕府が「銀山奉行」を設置、その後「生野代官」が置かれやがて、生野銀山の最盛期を迎えました。
明治元年、政府直轄鉱山となった生野銀山にフランス人技師ジャン=フランソファ・コワニェが着任し、軌道や巻揚機の新設など数々の先進的施策により、めざましい近代化を遂げました。
明治22年には宮内省御料局の所管へ移され皇室財産に。次いで明治29年に三菱合資会社へ払い下げられ、国内有数の大鉱山として稼行しましたが、昭和48年に閉山し、長い歴史に幕を閉じました。
佐渡の金山とならぶ生野の銀山、坑道内を興味深く歩きました。銀山で潤った豪商たちの造った街並み、ちょっとした小京都、静かな生野の街でした。八重さくら、シャクナゲ、新緑のきれいな季節でした、豊かな一日でした。
銀山坑道内は年間13℃、ちょっぴり寒く感じました。坑道を出たとき温かくホットしました。生野銀山は標高約600m、三宮に帰ってきてバスを降りたときは「暑い!」、上着を脱ぎました。温度差をしっかり感じた一日でした。
平成30年11月22日 13:00~ 小磯記念美術館 23名参加
≪画像は展覧会のパンフレットや受付にあった小冊子からのものです≫
季節の変わり目で、日によって寒暖差が大きい時候ですが、この日は温かい一日でした。
美術館は六甲ライナーのアイランド北口駅すぐのところにあります。美術館前には柔らかな日差しの当たっている並木道に秋を感じました。受付をすませ、学芸員の説明を聴きました。
洋画家の誕生
小磯良平は1903年、神戸で生まれた。三田藩の旧家の岸上家の次男だが、小磯家の養子となったこの時かかわったのが小寺謙吉である。三田中学(現在の三田学園)を開校した人物。神戸第二中学校では、詩人の竹中郁と生涯の友を得た。
東京武術学校の西洋画科に入り首席で卒業した。在学中の1926年に「T嬢の像」で帝展で特選を獲得。学校では応募を禁止したが別名で出展したそうな。学校名を出していたら選ばれなかったとか。
自画像 1926
1928年フランスへ留学。ルーブル美術館などで西洋画を見るのに明け暮れたという。そして自分は、西洋画を追及し挑戦することとした。
踊り子1940
戦時下の大画面群像
1938年、藤田嗣治らとともに従軍画家として中国にいき、帰国後戦争画を制作した。そして群像表現を深めた。
練習場の踊り子たち 1938
斉唱 1941
戦後の新たな挑戦
働く人びと 1953
麦刈り1954
アトリエ
1949年、住吉山手に建てられたもので、この美術館の中庭に移築されるました。中に入りると、彼の制作の様子が想像できるます。窓からの光が入り彼が追及した絵の陰影が得られそうです。
2018年10月25日 講師 埴岡真弓氏
参加者 21名
少し肌寒いけれど日差しが当たる所はほどよくあたたかく、歩くのによい日和でした。網干駅前に午前10時集合でした。駅前の案内板で、講師より、網干町についてのお話がありました。網干は早くにひらかれ、物流の重要な拠点であったことが知らされました。
網干は古くから開発の進んだ地で、古社・古寺が多く、あちこちに歴史をうかがわせるものがあるようです。
1658年、龍野藩主であった京極家が丸亀に移封されたとき、一万石足らないのでこの地の興浜、浜田などが京極家の領地として丸亀藩に属したということです。江戸時代には丸亀・龍野・天領に分かれた複雑な構成であったようです。
駅前を出発して、路地を進み加藤家へ。加藤家は江戸時代に蔵元で廻船を、いとなんでいた。家の前にけっ秀碑と呼ばれるものがあり、その題字は勝海舟の書である。
揖保川を分かれた網干川を少しはいったところに船泊があり、今も数隻の船が出入りしているのが見えました。船で運ばれたが物品がここで降ろされ加藤家に積まれたということのようです。加藤家のすぐ隣に船渡八幡神社があり、江戸時代の御神灯や玉垣、力石がある。八幡神社から網干商工会館の前を通り、西へ行くと、揖保川の流れが眼前にひらました。右方に網干大橋が見えました。
揖保川沿いを南西に行くとき、北原白秋が作詞した町歌の碑がありました。白壁の家が数軒、通りに面して並び、江戸時代にタイムスリップしたかにおもわれました。丸亀藩の陣屋門跡にて、ボランティアガイドの説明を聴きました。江戸時代、京極家がここに一万石の陣屋をおき、奉行を派遣して政務をおこなっていた。
さらに通りを行くと山本家着きました。
山本家は約1800平方メートルの敷地に明治初期に建てられ、和館・洋館は大正時代に網干銀行頭取の山本眞蔵によって建てられた。内部をボランティアガイドの説明をききながら、見学しました。数年前までは一部で人が生活していたという。あと姫路市に譲渡された。管理が大変そうです。ステンドグラス、細工された格子模様のある戸、綿密にしつらえた天井板・床板、貝合わせが壁一面にちりばめられた浴室などなど、思い切り贅をつくした内装です。金庫室にはかって「あかずの金庫」があり、所ジョージの番組で開けたが、そこには大金でなく子供の成績表がはいいっていたとか。そして3階の望楼は民家には大変珍しいものです。そこから網干の町を見下ろせます。山本眞蔵は山本マッチを創設し、富を得たという。その工場が、屋敷から少し離れたところにあり、それをお客に見せるために望楼が作られたとか。
山本家から東へ行くと江戸時代に脇坂家(龍野藩)と京極家(丸亀藩)の藩境となっていた堀割にかかっていた堺橋の石材が残されていました。
それをすぎ、商店街を行くと旧網干銀行本店の建物があった。見事な洋館ですが、一階の一部が洋装店に改装されているのが惜しい。それから気になったのはこの日は休みだったのか、それともシャッター街になったのかお店が閉まっていました。
山陽網干駅前に戻り、そこで昼食をとるレストランの送迎バスに乗りました。これは綾部梅林に接してある海辺のホテルのレストランです。海が見える部屋での昼食。海の向こうに家島群島が見えました。
昼食後、魚吹八幡神社に行きました。宇須伎津、魚吹について次のように記されています。
「播磨国風土記」揖保郡 より
宇須伎津(うすきつ) 右、宇須伎津と名づくる所以は、大帯(おおたらし)日売(ひめの)命(みこと)、韓国(からくに)を平(ことむ)けむとして、度り行でましし時、御船、宇頭川の泊に宿りたまひき。此の泊より伊都に度り行でましし時、忽ち逆風(さかしまかぜ)に遭ひて、え進み行かずして、船越より御船を引かしめき。ここに、一の女人(をみな)ありて、資(つかひびと)に己が真子を上(たてまつ)らむとして、江に堕ちき。故、宇須伎と号く。
新(いま)の辞(ことば)の伊須須(いすす)久(く)なり。(=慌てふためくこと)
「播磨國風土記」より
魚吹(うすき)の由来について、播磨國(はりまのくに)風土記(ふどき)には宇須伎津とあるが、本来、当地方は海べりの砂堆積地であった。魚が群れをなして砂を吹き寄せて、土地が出来たと云い伝えられている。
これは洋の東西を問わず語られる神話的方法で、魚は人とおきかえ、すなわち、多くの人々が、海を埋め埋めして開いていったと、後生永く伝えるため、魚吹伝説として今日まで云ひ伝えられた。
又、網干(あぼし)の地名も、この神社の祭礼に、漁民が一斉に、休漁して網を干して参詣したので網干と云うようになったと伝えられています。
魚吹八幡神社は320年に建立。播州で最も氏子の多い神社で、10月21日・22日は秋季礼祭では神輿3台、だんじり4台、屋台18台が集まり、播磨で屈指の祭りとされている。そして呼び物は、宵宮での提灯行列と、宮入前の提灯練りである。よって「提灯祭り」とも呼ばれています。youtubeで一度見てください。力強くて華々しいさまは、きっと昔と変わらないのだろうとおもいました。
社務所の入口に入ったところに大きな屋台が、置かれています。屋台を彩る細やかで華やかな細工に圧倒されます。それから菊花展の準備をされていた神主さんより説明を聴きました。神社では農業に関する祭りが執り行われるという。秋季例祭はこの間終わったばかりでした。
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